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 第五章    日本統治の基礎づくり

        土匪の抵抗

      日本の台湾統治は、台湾人の武力抵抗に対する鎮圧から始められた。樺山資紀、桂太郎、乃木希典の三代総督は、台湾民主国とその後の「土匪」または「匪徒」と称された、ゲリラとの戦いに明け暮れた。台湾総督府の支配が浸透していくにつれ、先住民の抵抗も頻発するようになり、これらの制圧は困難をきわめた。

       樺山総督は一八九五年十一月に、「今ヤ全島全ク平定二帰ス」と大本営に告したが、皮肉にもこの後から、台湾全島各地でゲリラ活動が活発になって行った。翌十二月には、台湾東北部で決起した「上匪」が宜蘭を包囲し、日本軍を襲撃した。このとき日本軍に殺害された台湾人は二八〇〇余名に達している。また、十二月から翌一八九六年一月にかけては、簡大獅や陳秋菊らの「土匪」が、台北を奪回しようとして襲撃し、台湾全島が騒然となった。総督府は本国に援軍を要請し、結局、数千の「土匪」を殺害して鎮圧した。日本政府は同年四月にいたり、日清戦争のための大本営を解き、戦時体制を終了させた。しかし、台湾の「戦時体制」は、いま暫くはつづくのである。

      台湾人の抵抗の鎮圧に腐心するなかの一八九六年五月、初代総督・樺山資紀は在任一三ヵ月足らずで、陸軍中将の桂太郎と交代した。二代総督となった桂太郎は、在任期間わずか四ヵ月、そのうち台湾に滞在したのは一〇日間に過ぎず、椅子の温まる暇もなければ、総督らしい仕事をする間もなかった。台湾総督でありながら、樺山も桂も心は台湾にあらずで、日本本国の中央政治に心を奪われていたようである。同年十月に陸軍中将の乃木希典が、第二代台湾総督に任命された。乃木は台湾領有の際に、第二師団長として台湾民主国の抵坑の鎮圧に加わっており、台湾とはまったく無関係ではなかった。台湾統治の熱意ははるかに強く、母親を同伴しての赴任であったが、乃木の在任期間も一年四ヵ月と短かった。しかも必ずしも業績をあげたとはいえない。

        乃木総督は就任して早々、宜蘭警察署長の「土匪招降策」を受け容れ、北部や中部の一部の「土匪」の降伏を実現させた。また、翌年の一八九七年六月から、「土匪」鎮圧策の「三段警備」を実行し、もっとも情勢不穏な山間部を陸軍部隊と憲兵隊に、比較的に安定している地域を憲兵隊と警察に、一応は安定している地域を警察に、それぞれ警備を担当させた。この「三段警備」は、陸軍と警察の対立と摩擦を解消し、命令の一元化をはかったものであった。しかし、「土匪招降策」と「三段警備」の、軟と硬の策の併用をもってしても、「土匪」の抵抗の鎮圧はさほどの効果を上げなかった。

        「土匪」の鎮圧の難しさに加えて、言語の問題もあった。日本政府は台湾人が中国語(北京官話)に通じていると思い込み、中国語の通訳を台湾に派遣した。しかし、先住民や移住民のビン南系と客家系を含めて、ほとんどの台湾人は中国語に通じず、中国語のできる台湾人を副通訳に採用し、日本人の正通訳との間に中国語を介して、日本語と台湾語の会話が行なわれた。この「通訳政治」は、きわめて非能率的なばかりでなく、さまざまな誤解や曲解を生じさせており、あらゆる面で混乱をもたらしている。

        土皇帝の権力

        日本政府は樺山資紀を台湾総督に任命した際、「貴官ヲ簡抜シ、授クルニ台湾総督兼軍務司令官ノ重任ヲ以テセラレタルハ……貴官ノ重任ノ執行二資セントスル……若夫レ将来予知スペカラザル事情生ジ、而カモ其性質急激二属シ、政府二電稟シテ命ヲ待ツノ暇ナキ場合アラバ……臨機専行ニシテ後其顛末ヲ報告スルコトヲ得」と訓令した。この訓令にもとづき、台湾総督は行政長官であると同時に、軍政と軍令を統轄する軍事長官として、事後報告を要するだけで、臨機専行の権限を与えられており、まさに台湾に君臨する「皇帝」、台湾でいう「土皇帝」であった。台湾総督の「土皇帝」ぶりは、日本に政党政治が実現し、原敬内閣のもとで文官総督が就任するまでつづいた。

         「土皇帝」の台湾総督には、法律を制定する権限も与えられている。日本政府は「土匪ノ反乱」、風俗人情の相違、東京と台湾の距離の遠いことを理由に一八九六年二月、帝国議会に「台湾ニ施行スベキ法令二関スル法律案」を提出して採択され、同月末日に法律第六三号として布告、四月一日から施行した。この通称「六三法」が、台湾総督に立法権を与え、総督によって制定された法律は、とくに「律令」と称して日本の国内法と区別し、その法域も台湾に限定している。樺山総督はこの律令制定権にもとづき、早速、「台湾総督府法院条例」(律令第一号)を制定して、各級裁判所(法院)を設立、裁判官と検察官を任命した。さらに帝国議会は翌一八九七年三月に、「台湾総督府特別会計法」を制定し、同年度から施行した。これにより台湾総督には、財政権も与えられることになった。まさに「土皇帝」は、臨機専行のもとで議会の監督も受けず、軍政と軍令のほかに行政権、立法権、司法権(裁判権)、財政権をも掌握する権力の集中ぶりである。

       しかし、このような「土皇帝」たる総督をもってしても、「土匪」の鎮圧ができなかったことを考えれば、いかにその抵抗が執拗であったかが知られよう。この頃、日本の官民には、台湾を一億円でフランスに売却すべしという、「台湾売却論」が登場したほどである。

       国籍の選択

       日清講和条約の第五条には、「日本へ割与セラレタル地方ノ住民ニシテ右割与セラレタル地方ノ外二住居セムト欲スル者ハ、自由ニソノ所有不動産ヲ売却ンテ退去スルコトヲ得ヘシ。其ノ為メ本約批准交換ノ日ヨリ二個年間ヲ猶予スベシ。但シ右年限ノ満チタルトキハ、未タ該地方ヲ去ラザル住民ヲ日本国ノ都合二因リ日本国臣民卜視為スコトアルベシ」とあり、二年間の猶予期間を設けて、台湾住民に対し、台湾にとどまり日本国籍を取得して日本国民となるか、それとも所有の財産を売却して台湾を去るか、のいずれかを選択する自由を与えている。日清講和条約は一八九五年五月八日に批准交換され、したがって台湾住民の国籍選択の最終期限は、一八九七年五月八日であった。

         この第五条は、講和会議において日本側が提案したもので、当時、台湾の住民は割譲に反対し、徹底抗戦の構えを見せており、独立国家を摸索する動きもあった。日本政府としては、住民の抵抗もなく平穏裡に台湾を領有するため、割譲に反対する者には、あえて台湾にとどまり、日本国民となることを求めなかったのである。この趣旨にしたがい、一八九六年十一月に「台湾及澎湖列島住民退去条規」が布告された。その概要は、台湾および澎湖列島の住民で退去を希望する者は、永世住民あるいは一時的な居住者を問わず、期限日以前に官庁に申告すること、「土匪」は降伏し武装を解除した上で退去すること、退去する者が携行する財産には関税を免除すること、となっている。しかし、実際に台湾を退去した者は約四五〇〇人とも、六五〇〇人ともされている。いずれにしても人口の一%にもおよばず、住民の台湾定着度の高さを示している。

      台湾住民は国籍選択の自由を与えられたが、日本国籍を好んで選んだとはいえない。むしろやむにやまれぬ二者択一であり、これまで台湾に築いてきた生活の基盤を、失うことを恐れたからにほかならない。住民の支援と掩護なくして、「土匪」の抵抗活動はむずかしく、国籍選択期限を過ぎてもながらくつづいたことが、それを物語っている。日本政府ならびに台湾総督府もまた、抵抗する「土匪」を除き、住民に対しては積極的に台湾からの退去を強いる政策をとらなかった。台湾は熱帯と亜熱帯に属し、日本とは生活環境が大きく異なっており、風土病をはじめとして衛生事情が悪く、ただちに日本人を移住させて開発に従事させるわけにはゆかない。台湾の開発と経営に必要な労働力を確保する見地からも、住民の流出は望ましいことではなかった。

       国籍選択の期限以降、台湾総督府は台湾と中国との往来を厳しく制限した。清国の台湾における領事館の開設も拒否し、住民に対する清国の影響の排除に努めた。その結果、台湾住民は、国籍こそ「日本」であっても、植民地における宿命でもある歴然たる支配者と被支配者の関係から、真の「日本人」とはなり得ず、差別に苦しむなかで「台湾人」としての意識を強めて行った。

         後藤新平の生物学的植民地経営

       後藤新平は日清戦争終了当時、陸軍中将の児玉源太郎・臨時陸軍検疫部長のもとで、事務官長を務めた。児玉と後藤はここで相知り、相許す仲となった。検疫事務を終えた後藤新平は、内務省衛生局長に復職した。この頃、台湾の阿片問題をめぐり、「厳禁論」と「非禁論」が真っ向から対立して、かんかんがくがくの論議が沸き起こっていた。後藤は「漸禁論」を唱えて、「台湾島阿片制度ニ関スル意見」なる意見書を提出、これが認められて台湾総督府衛生顧問に起用された。この後藤の意見書にもとづいて、一八九七年一月に「台湾阿片令」が布告され、阿片の専売制度が設けられた。阿片問題は後藤と台湾を結びつけ、さらに日露戦争後の満鉄総裁就任へと導き、日本の植民地経営に大きな足跡を記すことになる。

        台湾人の阿片吸飲は、オランダ統治時代からの悪習であった。この悪習はバタビアの華僑に始まり、それが台湾にもち込まれ、さらに台湾から厦門経由で中国全土に広がったとする説もある。それだけに台湾における阿片吸飲の歴史は古く、蔓延による弊害も深刻であった。日清講和会議の席でも台湾の阿片問題が話題にのぼり、阿片吸飲対策は台湾人の武力抵抗の鎮圧とともに、日本の台湾領有の当面の重要課題となっていた。後藤新平の阿片漸禁政策と専売制度は、阿片吸飲者の漸減をはかる行政目的、阿片専売収入をはかる財政目的に加え、各地の台湾人を阿片の仲売人と小売人に指定することで、抵抗する「土匪」の対策に協力させる治安目的にも資し、一石二鳥どころか、実に一石三鳥もの効果をあげている。

        後藤新平は台湾総督府民政局長(後に民政長官)として、一八九八年三月に第四代総督の児玉源太郎とともに台湾に赴任した。児玉総督はかつて陸軍次官として、日本が台湾を領有した直後に設立された中央主務官庁であり、伊藤博文首相を総裁とする台湾事務局で、原敬・外務次官、田健治郎・逓信省通信局長らとともに委員を務めていた。すでに領有当時から、台湾とかかわっていたのである。児玉は総督に在任中、一九〇〇年十二月に第四次伊藤内閣の陸軍大臣を兼任、一九〇三年七月に第一次桂内閣の内務大臣となり、台湾総督と文部大臣を兼任、日露関係の険悪化にともない、内務大臣を辞して参謀本部次長となり、日露戦争勃発とともに満州軍総参謀長に就任した。したがって児玉は「留守総督」といわれるように、第五代総督の佐久間左馬大と一九〇六年四月に交代するまでの八年余の間、台湾統治に携わる暇はなく、実質的には後藤民政長官に委ねられた。

       後藤はその持論である「生物学的植民地経営」を実践して行った。後藤いわく「比良目の目を鯛の目にすることはできんよ。鯛の目はちゃんと頭の両方についている。比良目の目は頭の一方についている。それがおかしいからといって、鯛の目のように両方につけ替えることはできない。比良目の目が一方に二つ付いているのは、生物学上その必要があって、付いているのだ……政治にもそれが大切だ……だから我輩は、台湾を統治するときに、先ずこの島の旧慣制度をよく科学的に調査して、その民情に応ずるように政治をしたのだ……これを理解せんで、日本内地の法制を、いきなり台湾に輸入実施しようとする奴等は、比良目の目をいきなり鯛の目に取り替えようとする奴等で、本当の政治ということの解らん奴等だ」とあり、医者らしい着想といえよう。後藤はこの生物学的な原理にしたがい、台湾に就任すると「土匪」の鎮圧に従事する一方、台湾旧慣調査会や中央研究所などを設立し、土地および人口の調査を実施した。そしてこれらの調査と研究を基礎に、台湾統治の政策と法制を立案した。こうして後藤新平のもとで、台湾統治と日本資本主義の台湾移植に必要な「基礎工事」が行なわれ、台湾財政の独立と統治の基礎が確立されて行ったのである。

        ムチとアメの併用

       植民地経営は人類愛にもとづく「慈善事業」ではない。軍事力という物理的な措置で領土を獲得すれば、当然に武力による抵抗を招く。その抵抗を抑えるために、またしても武力を行使することになり、抵抗が激しいほど弾圧も強化されて行く。後藤新平の「土匪」対策は、徹底したアメとムチの併用であった。さらに近代的な建築物や鉄道、水道、電気などの整備で植民地の住民を威圧する、いわゆる「文装的武備」によって、治安秩序の回復と支配関係の確立をはかった。そして抵抗の鎮圧にあたっては、非情なまでの手段による「鉄血政策」で臨んだ。

         後藤は就任後まもない一八九八年六月に、乃木前総督の「三段警備」を廃止し、軍隊を排して警察を中心に「土匪」の鎮圧にあたった。日本の植民地統治を、朝鮮では「憲兵政治」といい、台湾では「警察政治」という。台湾の「警察政治」は、後藤によって始められたもので、日本の統治時代を通じて、台湾の警察は「泣く子も黙る」ほどに恐れられる存在であった。後藤と児玉の就任で、台湾の警察組織は著しく拡大され、警察力はいちはやく地方の隅々にまで浸透し、警察の電話網も整備された。警察力の整備と並行して同年八月、鄭氏政権時代に始められ、清国時代に基礎ができた保甲制度をさらに完備させ、「保甲条例」が布告された。このときの保甲制度は、警察の管轄下で連座制、相互監視、相互密告を強化し、「土匪」の鎮圧と治安の維持に大きな威力を発揮し、また、総督府の意向を住民に徹底させる上でも多大な効果があった。さらに十一月には「匪徒刑罰令」を布告し、「土匪」「匪徒」に対して厳罰で臨んだ。その刑罰は秋霜烈日のごとくで、翌一八九九年の一年間だけで、「匪徒刑罰令」による処刑者は一〇二三人を教え、後藤の就任から一九〇二年までの五年間に処刑された「土匪」は、三万三〇〇〇人にも達しており、当時の台湾人口の一%を越えている。

       台湾人に対して苛酷なムチで臨む一方、後藤は懐柔策もほどこしている。後藤は台湾人の弱点として、①死を恐れ、高圧的な威喝に弱い、②銭を愛し、利益誘導に弱い、③面子を重んじ、虚名と虚位で籠絡しやすい、ことを挙げている。そうだとすれば、執拗で激烈な抵抗はなかったはずであるが、それはさておき、これらの弱点を利用しての統治は、「治台三策」といわれる。後藤は台湾人を懐柔するにあたり、八〇歳以上の高齢者は「饗老典」に招いてもてなし、読書人には詩作や詩吟の集いの「揚文会」を催し、名望家や士紳には気前よく「紳章」を授けた。また、乃木総督のときに始められた「土匪招降策」を踏襲し、「匪徒刑罰令」第六条の、「本令ノ罪ヲ犯ジタル者、官ニ自首シタルトキハ、情状二依り其刑フ軽減シ、又ハ全免ス。刑ヲ免シタルトキハ、五年以下ノ監視ニ付ス」を適用して、投降を奨励した。投降者には刑を免除するほかに、更生資金と職業を与えた。今日も使用されている、台北から宜蘭にいたる急峻な道路は、投降した「土匪」らの手で建設されたものである。「土匪」が投降する際には、オランダ統治時代にならい、武装警官隊が取り囲むなかで、仰々しく「帰順式」を行ない、再犯を防ぐために投降者の写真を撮り、氏名を登録させた。「帰順式」と称して、集まった投降者を警官隊が射殺した例もあったが、こうして後藤新平が台湾を去る一九〇六年までに、大規模な武力抵抗はほとんどなくなっている。

         調査事業

        生物学的植民地経営の理念から、各種の調査事業も行なわれた。まず一八九八年に土地調査が始められ、「台湾地籍規則」と「台湾土地調査規則」が布告された。また、「臨時台湾土地調査局」が設けられ、六年間の調査で動員された人員は延べ一六七万人、経費は五二五万円であった。この調査で台湾の耕地は、調査前に予想した三〇万甲をはるかに越して、田が約三一万三七〇〇〇甲(一甲は九七〇〇平方メートル)、畑が三〇万五六〇〇甲の約六二万甲となり、地租徴収の基礎となった。清末の劉銘伝の清賦事業において整理できなかった耕地の二重所有形態も、大租戸に補償金を支払うことで解消し、小租戸を地主とする近代的な土地所有制度を確立した。大租戸に対する補償金は、台湾事業公債から支払われた。さらに所有者のない「無主」の土地を公有とし、これを定年になった官吏や日本の会社に払い下げ、日本資本の台湾進出に役立てた。なお、土地調査に際しては、日本国内でもまだ用いられていなかった、最新の三角測量法が採用され、台湾と付属諸島の面積と地形の測定、ひいては正確な地図の作成に役立っている。ちなみに、日本が台湾を放棄した後、中華民国国民党政権も土地改革を行ない、地主の消滅をはかったが、後藤新平のもとでの大租戸の処理を範としている。

       つづいて一九〇一年に「臨時台湾旧慣調査会規則」を布告し、同調査会を発足させ、後藤民政長官みずから会長を務めるほどの、熱の入れようであった。この調査会には、京都帝国大学教授の岡松参太郎、織田万ら多くの学者が加わり、その調査と分析の成果は膨大な量の報告書にまとめられ、台湾の行政のみならず、今日でも清国ならびに中国学の研究に資している。

       一九〇三年には「戸籍調査令」を布告し、 一九〇五年十月一日午前零時を期して、全面的な人口調査を行なった。台湾史上最初の本格的な人口調査といえるこの調査で、台湾の人口は約二〇四万人、その内訳は、台湾本島人(台湾人)は約二九八万人で九七・八%(ビン南系は約二四九万人で八二%、客家系は約四〇万人で一三%、平地先住民は約五万人で約一・五三%、山地先住民は約四万人で一・一%)、日本人は約五万七〇〇〇人で一・八九%、中国人を含む外国人は約一万人となっている。この人口統計はほぼ妥当と思われるが、在台湾の日本人の人口は正確に掌握できても、なお抵抗している「土匪」や、とくに山地先住民に対する人口調査は困難である事情を考慮すれば、調査漏れは避けられない。また、清末の人口推計との比較で、先住民の人口が著しく減少していることは、山地先住民の調査漏れに加えて、平地先住民の漢族化があると考えられる。

      インフラ整備

       「土匪」を鎮圧しつつ、台湾経営の基礎となる土地調査、旧慣調査、人口調査を行なう一方、後藤新平は産業開発のためのインフラストラクチュア(経済活動の基盤となる交通、運輸、港湾などの施設。以下「インフラとする)の整備にも着手した。

        日本が領有した頃、台湾の主な貨幣は硬貨であり、通称「墨銀」(メキシコ・ドル)が中心であった。台湾貨幣の統一、産業の開発と振興、対岸の華南および東南アジアとの貿易金融の促進のため、台湾総督府は一八九七年四月布告の「台湾銀行法」にもとづいて、二年後の一八九九年七月に台湾銀行を設立、九月に開業した。台湾銀行法と台湾総督府特別会計法は、「土皇帝」の台湾総督の財政権にとり、まさに車の両輪のようなものである。台湾のインフラ整備に必要な事業公債は、ほかでもない台湾銀行を通じての調達であり、台湾銀行の役割には大きなものがあった。

       一九四年にいたり、台湾銀行券が発行された。硬貨になじんでいた当時の台湾人には、紙幣の流通は貨幣革命であった。台湾銀行はその後、日本国内はもとより対岸の厦門、汕頭、広州、上海、香港などにも支店ないしは出張所を開設し、それまでイギリスや中国資本に牛耳られていた、台湾物産の貿易金融に参入し、その奪回に努めた。台湾銀行は設立早々から、日本資本主義の中国ならびに東南アジア進出の先導役を果たしている。

        台湾総督府は一九〇一年に「台湾公共卑土川規則」を布告した。卑は貯水池、土川は灌漑用河川のことで、つまり農業振興のための水利耀概施設の整備に関する規則であり、あわせて新たな耕地の開拓に資するものであった。水利灌漑事業は後藤が台湾を去った後にも受け継がれ、台湾の耕地面積は一九一九年に七五万余甲に達した。さらに一九四一年には八八万余甲に達し、そのうち水利灌漑のおよぶ耕地は約五四万六〇〇〇甲であった。水利灌漑事業は、台湾の農業生産に飛躍的な効果をもたらし、地租の増収にも貢献している。米の品種改良も積極的に行なわれ、新種の「蓬来米」は日本人にも好まれ、今日ではササニシキやコシヒカリの存在の陰に忘れ去られたが、当時は大量に日本に移出されていた。

       後藤新平はオランダ統治時代からの輸出産業の一つである、製糖業の育成にも努めた。台湾総督府は一九〇二年に「台湾糖業奨励規則」を布告した。この規則は製糖業の「奨励」というよりも、日本資本に対する「優遇」といってよく、土地調査で「無主」とされた官有地を無償で日本企業に譲渡し、砂糖キビ苗費、肥料費、灌漑水利費、開墾費、機械器具費には奨励金、砂糖の製造には補助金を提供した。従来の旧式製糖技術の革新にも腐心する後藤は、新渡戸稲造を台湾に招聘した。このとき新渡戸は、病気と任官資格を理由に固辞したが、後藤は病気については、執務室に「昼寝用の寝台」をおくこと、任官資格については、当分は殖産局長「心得」とすることで、新渡戸を迎えた。製糖技術と設備の近代化で、砂糖の品質と生産高は大いに高まり、税収の増加に大きく貢献した。日本の砂糖消費は安い台湾産でまかなわれ、輸入に必要な外貨の節約にも貢献した。当時の台湾の製糖業は、「糖業帝国主義」といわれたほどの存在であった。ちなみに、新渡戸の「昼寝付き」の招聘に見るように、後藤新平は台湾総督府に必要な人材に対しては、異例あるいは破格ともいえる条件で、多くの優秀な人材を集めている。

       インフラの整備は、台湾領有直後に着想されてはいたが、後藤新平のもとで本格的に着手 され、その退任後も継続的に推進された。もっと も基幹的な事業 として、港湾の増改築、鉄道 の敷設、道路の改修と延長、通信網の整備、 公衆衛生事業の推進が挙げられる。台湾領有当初、北部の基隆と淡水、および南部の高雄と安平が主な港として使用されていたが、淡水と 安平は水深が浅く、大型船の入港には支障が あった。そのため基隆港と高雄港を増改築して、海外との海上交通の向上をはかるかたわら、基隆と高雄の間に縦貫鉄道を敷設して、港湾と鉄道を連結させ、さらには縦貫鉄道と随所の道路を結び、陸上交通網の整備に努めた。通信網の整備では日本本土との通信設備を整え、台湾各地に郵便局と電信局を開設した。公衆衛生に関しては、いちはやく台湾医学校を開校して医者を養成するとともに、各地に総督府立病院を建設した。また、強力な警察組織を通じて、伝染病患者の隔離を徹底させ、住民に種痘と伝染病の予防注射を強制した。

        これら台湾総督府によるインフラの整備は、台湾の産業の振興と住民の健康の改善に大きく役立った。しかし、これらに必要な経費は、清末の劉銘伝の改革と同じく、「現地調達」の原則が徹底され、ほとんどが台湾で徴収する租税や台湾事業公債、専売収入でまかなわれ、道路の改修と延長は、保甲制度を通じて動員される、住民の勤労奉仕が常であった。

        繰り返すが、植民地経営は「慈善事業」ではない。「生物学的植民地経営」を実践する後藤新平においては、雌鶏を殺してまでタマゴをとることはなく、台湾という金のタマゴを産む雌鶏を肥えさせて、できるだけ長く産みつづけさせるというものであった。インフラの整備はそのための「基礎工事」であった。交通網や通信網の整備は、台湾人の生活圏と経済圏の拡大と深化をもたらした。しかし、清国と隔離され、日本人に差別されるなかで、台湾人意識をいっそう強めさせてもいる。

       武力抵抗の徹底鎮圧

        児玉総督と後藤長官の在任中は、台湾経営に多くの成果を挙げた。そのなかでも一九〇五年度から、日本政府の台湾総督府特別会計に対する補助金を辞退することにより、領有から一〇年ほどで台湾の財政独立を実現させたことはよく指摘される。後年、矢内原忠雄・東京帝国大学教授は、「台湾のごときは本国財政及経済にとり最も価値多き植民地」であると評価している。

    児玉総督は一九〇六年二月に退任し、陸軍大将の佐久間左馬太が同年四月に第五代台湾総督に就任した。その一年足らず後には、後藤新平も台湾を去った。その後、一九一五年五月に陸軍大将の安東貞美が第六代総督に、一九一八年六月に陸軍中将(のちに大将)の明石元二郎が第七代総督に、一九一九年十月に文官の田健治郎が第八代総督に就任した。田健治郎が就任するまでの、樺山資紀から明石元二郎まではいずれも武官であり、通常「前期武官総督時代」(1895-1919年) と称され、この期間の総督の主な任務は、抵抗する「土匪」の鎮圧と、植民地の基礎建設であった。佐久間総督は一九〇六年四月から一九一五年四月の九年間にわたり在任し、日本が台湾を領有した五〇年間における一九名の総督のなかで、もっとも在任期間が長かった。その在任期間を通じて、「土匪」の鎮圧と服属しない山地先住民への弾圧、いわゆる「理蕃事業」に取り組んでいる。

       そもそも山地先住民は、オランダ、鄭氏政権、清国の統治を通じて服属したことはなく、支配権力も徹底的に鎮圧してまで服属させることはなかった。支配権力による教化がおよび、移住民との交流や通婚を経て、漢族化した平地先住民とは違い、山地先住民には支配権力の交代も関係なければ、ましてや服属など無縁の存在であった。むしろみずからの生活空間を侵犯する、外来者への反感を募らせた。このような山地先住民に対する弾圧作戦は、佐久間総督により本格化され、継続的に行なわれた。軍隊と警察、隘勇(監視員)などによる、大規模な武力行使を展開する一方、すでに清国統治時代からあった、山地先住民の居住地域と、移住民および平地先住民の居住地域との境界線である「隘勇線」を延長し、山地先住民の居住地域を侵食しつつ縮小して行った。総督府の近代的な装備と大規模な包囲作戦に押され、ついには山地先住民は中央山脈の山間部に閉じ込められて行ったのである。先述したように、昭和天皇が一九二三年に摂政官裕仁親王として台湾を訪れた際に、先住民の名称を従来の「蕃人」から「高砂族」に改めた。平地先住民は漢族化していることを考えれば、この「高砂族」は主に山地先住民を指すものと理解すべきであろう。

      佐久間総督の在任中にも、数々の武力抵抗があった。その主なものに一九〇七年十一月の、日本企業による樟脳の独占のもくろみに抵抗する「北埔事件」、一九一二年二月の三菱製紙に「無主」の林野を払い下げることに反対する「林杞埔事件」、一九一三年十二月の羅福星の蜂起未遂である「羅福星事件」があり、いずれも鎮圧された。

 

       佐久間総督と交代した安東京美総督は、一九一五年六月に赴任するとほぼ同時に、大規模な蜂起である「西来庵事件」(「タパニー事件」ともいう)が起こった。この事件は、「大明慈悲国」を建国する企てで、ほぼ台湾全域におよんだが鎮圧され、八六六名に死刑判決が下された。しかし、九五名の処刑を執行したところで、大正天皇の即位式の恩赦があり、七六六名が無期刑に減刑された。この「西来庵事件」を境に、台湾人の大規模な武力抵抗は終息した。そして新たな抵抗である、合法的な政治運動が展開されて行く。

        安東総督の後任の明石元二郎総督は、在任一年余で任期中に日本で病歿したが、その遺志により遺骨は台湾に運ばれた。「骨を台湾に埋めた」ただ一人の台湾総督である。

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