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第四章  台湾民主国

    日本の野心

    日本は一八七四年の台湾出兵を前に、アメリカ人のリゼンドルを外務省顧問に起用した。リゼンドルは台湾出兵に参画するとともに、「北は樺太より南は台湾にいたる一連の列島を領有して、支那大陸を半月形に包囲し、さらに朝鮮と満州に足場を持つにあらざれば、帝国の安全を保障し、東亜の時局を制御することはできぬ」と建言し、日本政府に大きな刺激を与え、台湾領有の野心の植えつけに多大な影響をおよばした。後日、日本の大陸政策は、ほぼこのリゼンドルの建言に沿ったものになっている。

    朝鮮の独立をめぐって、日清両国は一八九四年八月一日に戦端を開いた。同年末、戦争の勝利を見越した元枢密顧問官の井上毅は、伊藤博文首相に漢文の意見書を送り、「世人ハ皆、朝鮮ノ主権ハ之レ必ズ争フベキコトヲ知リタレドモ、台湾ノ占領が之レ尤モ争フベキコトヲ知ラズ。……彼ノ朝鮮ハ竟二独立ノカ無シ。……而シテ之ノ為保護国ハ義侠ノ美名有レドモ富殖ノ実益無シ。台湾ハ則チ然ラズ。……能ク黄海・朝鮮海・日本海ノ航権ヲ扼ス可クンパ、東洋ノ門戸ヲ開闇ス。況ヤ沖縄及ビ八重山群島卜相連絡スレバ、 一臂ノ伸ビル所、以テ他人ノ出入フ制ス。若シマタ此ノ一大島ニシテ他人ノ手ニ落ツレバ、我ガ沖縄諸島モマタ鼾睡ノ妨ゲヲ受ケ、利害ノ相反スルハ啻に霄壌ナラズ。……若シ此ノ機会フ失スレバ、二、三年ノ後、台島ハ必ズ他ノー大国ノ有スルトコロナルペシ。然ラザレバマタ必ズ中立シテ争フベカラザルノ地トナルノミ」と述べ、台湾領有の重要性を説き、この機を逸すれば再び機会はないと建言した。また当時、海軍教授を経て大本営属になっていた中村純九郎も、海軍軍令部長の樺山資紀に「台湾島占領に関する建議」を提出し、「南シナ海の咽喉たる台湾は、必ず日本が版図に収めなければならない」と力説している。

    この井上と中村の意見を容れ、大本営は翌一八九五年一月、澎湖列島の占領を決定し、下関における日清講和会議さなかの同年二月二十六日に、比志島支隊に澎湖島を占領させた。澎湖島の占領は、清国政府の台湾に対する支援を封じる上で、必要かつ有効な作戦であった。この占領は台湾の官民に衝撃を与え、日本の台湾占領の企てに不安を抱かせた。同月三十日に日清休戦協定が調印されたが、台湾と澎湖列島は休戦地域から除かれたため、不安はさらに募り、台湾と澎湖列島の割譲の噂も真実味を増していった。清国政府は講和会議の、遼東半島と台湾の割譲に関する事実をひたすら隠した。しかし、台湾の官民は外国人の洋行から得る情報で、講和会議のおよその内容を知っていた。

    日清開戦直後の一八九四年十月、すでに日本政府の台湾領有の野心を察知していたイギリス政府は、ロンドンの『タイムス』にこれを報道させて各国の関心を喚起し、また、フランスは日本の台湾占領に強く反対し、武力行使も辞さないことを表明した。これらの動きに鼓舞された、清国の両江総督である張之洞(1837-1909) は翌年二月、ロンドン駐在の清国公使を通じて、台湾を抵当に数千万両の借款をイギリスに打診したが断わられた。同じ頃、フランスの艦隊は澎湖島に到着し、日本軍が間もなく澎湖島に侵攻することを知らせ、また、フランス政府は清国政府に、台湾をいったんフランスに譲渡し、戦後に返還することを提案した。しかし、この提案は台湾の守備にあたり、かつて清仏戦争で勇名をはせた劉永福(1837-1917) の強硬な反対で、実現しなかった。そしてこの直後に、日本軍が澎湖島を占領したのである。

    台湾民主国の独立宣言

    日清講和条約は、一八九五年四月十七日に調印された。清国政府はこの重大なできごとを、ついに台湾の官民に対して事前に知らせることはなかった。台湾と澎湖列島の割譲を含む講和条約の内容を、台湾巡撫の唐景崧に伝えたのは、師にあたる張之洞であった。講和条約締結の翌日、「台湾才子」の誉れ高い邱逢甲が唐景崧を訪ね、台湾住民は割譲に反対し、徹底抗戦することを伝えた。清国政府総理各国事務衙門(外交部に相当)から、正式に台湾と澎湖列島の割譲が通告されたのは、同月十九日であった。そのなかに「台湾の割譲はやむにやまれぬことで、台湾も重要だが京師(首都・北京)と比べれば軽い。また、台湾は海外の孤島であり、守りぬくことはできない」とあり、台湾住民を落胆と悲憤の淵に陥れた。

     フランス政府は講和条約締結の直後、日本の台湾領有を阻止すべく、一度は台湾への派兵を準備したが、領有するマダガスカル島の動乱のために中止した。それを北京駐在のフランス公使が清国の外交部に通告したのは、五月十一日のことである。しかし、台湾の住民はフランスに期待をかけつづけた。同月十五日、邱逢甲は唐景崧を訪ね、台湾にとどまることを強請した。会見後に邱逢甲は、「台湾はすでに朝廷(政府)に見捨てられた土地であり、住民には頼るべきところなく、ただ死守あるのみである」と声明し、台湾独立の意向を表明した。さらに同月十九日にいたり、遅まきながらフランスの軍艦が到着したことから、清国のパリ駐在公使館参事官の経歴をもつ陳季同が艦を訪ねた。そして陳季同とフランス艦長との間で、台湾が独立すれば条約を締結して、フランスの保護を受けるか、あるいはフランスの武力介入で、台湾割譲の阻止が可能となることが話し合われた。この直後にフランス艦長が唐景崧を訪れた。当時、徹底抗戦を唱える台湾の紳民は、まさにワラにもすがる心境にあり、台湾独立の決意はさらに固まった。

    こうして台湾独立へ向けてにわかに準備が進められ、一八九五年五月二十三日、「台湾民主国独立宣言」が布告された。二十四日には外国語に翻訳された宣言文が、在台湾の各国の領事館に送付され、二十五日には独立式典が行なわれた。その独立宣言には、「日寇は横暴にして、わが台湾の併呑を欲す……情勢は危急をきわめ、日冠はまさに至らんとす。もしわれ屈従すれば、わが郷土は夷狄(野蛮人)に陥らん……すでに列国と協議を重ねたり、自立して後に必ずわれを援助す。わが台湾同胞は誓って倭に服せず、戦って死を選ぶ……決議を経、台湾は自立して民主国を樹立す」と勇ましい文言が並んでいる。台湾民主国の総統には唐景崧が推され、藍色の地に虎を描いた国旗の「黄虎旗」と、「民主国之寶印」の文字を刻んだ国璽、「永清」の年号が定められた。かくしてアジア最初の共和国が、ここに誕生した。ただし、諸外国の承認を得られぬまま日本軍の進撃により、ほどなくして消えたのである。

    民主国政府の主な陣容は、総統の唐景崧、副総統兼義勇(民兵)司令官の邱逢甲、内務部長の兪明震、外交部長の陳季同、国防部長の李秉瑞、南部の守備にあたる大将軍の劉永福などである。国会議長には台湾随一の富豪である林維源が推されたが固辞し、民主国に銀一〇〇万両を寄付して、独立式典の翌日に厦門へ逃げた。唐景崧は民主国総統に就任したものの、中国から台湾に赴任したほとんどの文武諸官と同様に、台湾を見放していた。むしろ唐景崧は強制されて就任したといえ、当初から逃げ腰であった。

     確かに、民主国は急ごしらえであり、拙速のそしりもあるが、台湾独立の着想は必ずしも奇想天外とはいえず、当時の情勢下における最高の選択であったともいえる。問題はフランスに過大な期待を寄せたことにあるが、フランスの援助を得たアメリカ合衆国の独立の経緯を思えば、台湾独立が外国に救いの手を求めたとしても、他力本願だとして嘲笑はできないであろう。日清講和条約における遼東半島の割譲が、ロシア、ドイツ、フランスの干渉で実現しなかったことが、列強の日本の台湾領有に対する関心を失わせ、それが台湾民主国の存立に大きな影響を与えている。より問題なのは、指導者の人選を誤ったことである。清国の官僚は日本の悪代官と同様に、転んでもタダでは起きない。唐景崧は巡撫の地位を利用して、講和条約締結の直後に公金四〇万両を上海に送金しており、早々と逃げる準備をしていた。そして日本軍が台湾に上陸して間もない六月四日、前線視察と偽って台北を離れ、同月六日に親衛兵に守られて、淡水からドイツ汽船で厦門へ逃げ帰った。民主国の独立式典からわずか二週間足らずのことである。民主国防衛の責任者である、国防部長の李秉瑞にいたっては、唐景崧よりも逃げ足が速かった。しかし、去る者が去った後、台湾に残った「台湾人」の抵抗が本格化する。

     日本軍の台湾占領

     日本政府は日清講和条約の締結後、台湾の不穏な動きに加え、外国の介入を恐れ、台湾の受渡しと占領を急いだ。一八九五年五月十日に、かつて陸軍少佐として台湾出兵のために台湾を調査したことのある、海軍大将の樺山資紀が台湾総督に、樺山の台湾調査に同行した水野遵が、民政局長官心得に任命された。樺山総督らは台湾総督府の編成を終え、同月二十四日に台湾に向けて出発した。二十七日には北白川官能久親王が率いる近衛師団と、沖縄の中城湾で合流し、二日後の二十九日に台湾上陸を開始した。六月二日、台湾の受渡しは当初予定した台北ではなく、三貂角沖の海上で行なわれた。これは清国全権である李経芳(李鴻章の息子)が、台湾住民の反感と襲撃を恐れ、台湾の情勢は平穏裡に受渡し手続を取り行なえないとして、強く要請したためであった。こうして台湾の領有権は、国際法的に清国から日本に移ったのである。

    日本軍の占領は、三貂角の北にある澳底の上陸から始まった。当時、台湾民主国の兵力は、清国の駐屯兵である湘勇(湖南兵)と広勇(広東兵)による正規軍と、台湾で募集した義勇(民兵)で、合わせて五万ないし一〇万と推定されている。しかし、正規軍といえども士気も悪ければ、紀律も乱れていた。むしろ義勇の方が、士気も紀律も勝っていた。首府の台北をめざす日本軍が、正 規軍の配置されている淡水や基隆を避け、迂回して澳底から上陸したのは、湘勇や広勇の実態に暗かったからであろう。上陸した日本軍は、天険といわれる三貂嶺を越え、基隆沖からの艦砲射撃の支援もあって、六月六日に基隆を占領した。台湾民主国の総統である唐景崧が、厦門に逃亡したのもこの日である。また、樺山総督もこの日、基隆に上陸した。

    日本軍の基隆占領は、台北を震撼させた。基隆から台北に敗走する湘勇や広勇は、その道すがら略奪、暴行をほしいままにした。台北城内もまた同じような状況を呈していた。その頃、台北城内の紳商や外国商人に請われた、鹿港出身の李顕栄(1866-1937) が基隆に赴き、日本軍の速やかな台北入城を要請し、みずから案内役を務めた。また、日本軍の先遣部隊が台北に到着した六月七日、陳法なる市井の一婦人が城壁の頂きからハシゴを降ろして、日本軍の無血入城を助けた。台北を占領した日本軍は、ただちに淡水の鎮圧に移り、九日に占領した。これで台湾北部の重要な拠点である台北、基隆、淡水は日本軍の制圧下となった。つづいて十七日、樺山総督は元台湾巡撫衙門(役所)で始政式を行なった。その後、日本が台湾を放棄するまで、毎年この日を「始政記念日」として式典を催している。ちなみに、この巡撫衙門は台湾民主国の独立式典の会場でもあり、日本統治下で台北公会堂に改築され、さらには第二次世界大戦に敗戦した日本の、中華民国国民党政権に対する降伏式の式場となった。日本の降伏式は国民党政権の台湾始政式でもあり、その後、台北中山堂と改名されて今日にいたっている。この建物こそ台湾の変遷のあれこれを眺めつづけて来た、物言わぬ歴史の「証人」であろう。

     台湾民主国の崩壊

    日本軍は思いのほか、たやすく北部を制圧した。このまま行けば台湾全域の制圧も、さほど時間を要しないと思われたが、予想に反して六月十九日からの南進作戦は、強い抵抗に遭い苦戦を強いられ、八月六日には混成第四旅団が増派された。つづいて陸軍中将・高島鞆之助が副総督として台湾に派遣され、南進軍の司令官に就任した。さらに十月十一日には、乃木希典の率いる第二師団も増派された。台湾の占領に投入された日本軍は、陸軍は二個師団半の約五万人、軍属と軍夫約二万六〇〇〇人、軍馬約九五〇〇頭で、当時の陸軍の三分の一以上が動員され、海軍は連合艦隊の大半が動員された。大清帝国でさえ新進の日本帝国の前に屈しており、海上の孤島の台湾が、独力で勝てようはずはなかった。しかし、それでもあえて台湾住民は、悲壮なまでに激しく抵抗した。

    清国が割譲した当時の台湾の人口は、先住民は四五万、移住民は二五五万の合計約三〇〇万と推定されている。移住民の多くは南部と中部に居住し、新開の台北を中心とした北部は、沈葆楨や劉銘伝の改革で、政治の中心とはいえまだ時浅く、住民はそれほど定着していなかった。日本軍の北部制圧により、台湾民主国の指導者と正規軍の逃亡があいつぎ、日本軍の中・南部の鎮圧作戦の遂行は、容易になったはずであった。しかし、逆に苦戦することになったのは、この地の移住民の多くが、すでに台湾を父祖の地、墳墓の地として、台湾で生きる決意が強く、それだけに抵抗も激しかったのである。

         抵抗の凄まじさについては、台湾の住民全員が兵士のごとくで、勇敢で決死の心意気に富み、婦女までも戦闘に加わっている、と日本の記録に成っているほどである。このような悲壮な抵抗に苦戦し、日本軍は台湾全島の鎮圧に五ヵ月も費やしたが、台湾住民には武器らしい武器もなく、竹槍や旧式の銃器では、日本軍の近代的な兵器の前に、とても勝負にはならなかった。台湾住民の犠牲は、戦死と殺戳された者を合わせて一万四〇〇〇人と推定され、負傷者の数は不明ながら、死亡者のそれを上回ると見られている。それに対して日本軍の戦死者は二七八名、負傷者は六五三名と発表されている。日本軍一人に対して、台湾住民五〇人の計算になり、まさに玉砕戦であった。

         台湾住民の抵抗でもっとも特筆すべきは、日本の記録にもあるように、婦女の戦闘参加とゲリラ戦であったことである。また、台東の先住民の戦闘員約七〇〇名が、西部の移住民とともに戦ったことも注目に値いする。ながらく移住 民と反目しがちであったことを考えれば、先住民の参戦は画期的なできごとである。さらにはこの絶望的な抵抗を通じて、これまでの移住民意識が薄れ、分類械闘に陥りがちな客家人やビン南系の泉州人、樟州人の間に一体感が芽生え、「台湾人」としての意識が生まれたことは、将来に希望を抱かせるものであった。

     総統の唐景崧、副総統兼民兵司令官の邱逢甲ら指導者のあいつぐ逃亡で、台湾民主国は土台から崩れようとしていたが、資金調達のために民主国の紙幣や、郵便切手は発行されていた。この頃に発行された「台湾民主国士担布」の切手は、今日、収集家の間で高値を呼んでいる。六月下旬にいたり、台南で大将軍の劉永福が総統に推されたが就任を拒み、議会も再建されたが、名目的なものに過ぎなかった。戦局が不利となり、部下のあいつぐ逃亡もあり、劉永福は十月十日に高島南進軍司令官に講和を申し入れたが、拒否された。台南が台北の二の舞いとなることを恐れる、台南の紳商や外国商人の勧めで、劉永福は十九日に安平から、イギリス汽船で厦門へ脱出した。劉永福の脱出で中心的な指導者はいなくなり、ここに台湾民主国は崩壊したのである。一八九五年五月二十五日の建国から、わずかに一四八日間の台湾民主国ではあったが、激動のなかに生まれ、悲壮な戦いのなかに消えた共和国として、台湾の歴史に痛哭の一章を記している。

    台湾民主国は崩壊しても、台湾人の抵抗はつづいた。劉永福の脱出の後、台南城内の混乱を恐れた紳商と外国商人は、イギリス人宣教師のバークレーを使者にたて、日本軍の入城を案内させた。日本軍は十月二十一日に、ついに台南の無血入城を果たし、各地に散発的な抵抗が残るなかの十一月十二日から、近衛師団の日本本土への引き揚げが始められた。そして同月十八日に、樺山総督は大本営に台湾全島の「平定」の完了を報告した。

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